お前にこんな風に手紙を出すのは初めてだな。
10年前なら、明星で語り合ったり、長電話したり、いろいろあったけど。
早いようでもあり、どうしようもなく長いようでもあった10年。
俺は今でも「言葉探しの旅」という名の言葉遊びの自慰を繰り返してるみたいだ。
でも、ここらで筆を折ろうと思う。

だから、今日はどうせ吐き出しきれはしないこの想いを書きなぐってみたい。
人生ってやつはとんでもなく深いと思わないか?
多分、どっかで始まりがあって、確実に、どこまでも終わりがないこの命。
もし、俺がいつか絶望にくれてピリオドを打ちたいと思っても、
本能的に意味がないことを分り過ぎてるから、そんなことは出来やしない。

人は「2足のわらじ」を否定するけど、
俺はどこまでも2足のわらじを履くべきなんだと思うよ。
ある一面から見れば、1足目は「今」で、もう1足は「過去と未来」。
他から見れば、「やるべきこと」と「やりたいこと」。
今の俺に言わせれば、「学問」と「自分」。
1足だけじゃあ、すぐに履き潰してしまう。
でもな、しばらく俺は「過去と未来」であり「やりたいこと」であり、
なにより「自分」を靴箱にしまおうと思ってる。

昨日、ある親友がうちに泊ったんだ。
色々話したかったけど、お互い疲れてたし、あんまし話せなかった。
そんな中で、ドスリと胸に突き刺さった言葉がある。

「誰でもそうかもしれないけど、お前はいざというときに自分を守る」

まぁ、痛いほど感じてたことなんだけどな。
俺って人間はどこまでも誰よりも、結局「自分」なんだ。
どんなに偉そうなことをのたまわってみても、
どれほど純粋に誰かを想ってみても、
つまりは「自分」なんだ。
これほど悲しいことはないと心から思う。
そんなことで悲嘆するなんて馬鹿げてる、偽善だ、誤魔化しだと言われても、
俺自身がそう思うことは変えられない。
「自分」に生きてる自分を俺は呪う。
「自分」にしか生きられない自分を俺は恥じている。
俺は「自分」を殺してやりたいとすら思う。

吉本ばななの小説を最近初めて手にとって、2冊読んだ。
彼女の文章は「私」の目線で描かれていて、
俺がこんな文章を書いたら笑えない自伝にしかならないなと音も無く苦笑する。
このブログも散々書き綴ったのは「自分」だ。
元々、書くことを始めたのは「遺書」代わりだったんだから、
それはそれでいいのかもしれない。
けど、生きることから逃れられない俺は「自分」にこれ以上浸っていられないだろ?

お前にもあんまり話してはいないけど、
この春、俺は人生最大の罪を犯し、逃げようとして底なし沼にズッポリとはまった。
人を深く傷つけておいて、あがく俺の願いは“助かりたい”って欲望だった。
その貧困な精神を、キレイな言葉に乗せてここに記してきたんだ。
そうするために俺は歩いた。来る日も来る日も。
深夜に歩いてると、言葉が生まれてくる。
その言葉たちは、要領のいい俺に似てぶさいくだったけど、
俺はそれを見て癒された。
現実の混沌と困惑と混迷と困難の台風の中、
その真ん中にある言葉を目指して歩き続けていたんだ。

さて、現実に帰れば、夢に描いてた大学院だよ。
入学式は済んだけど、俺はまだ入学出来ていないって思う。
ま、向いてないって言えばそうなんだろうね。
論理的に並べられた発見をまとめた論文に魅力を髪の毛ほども感じない「自分」。
論理的に話すことが出来ないことないけど、俺は紆余曲折の文章が好きだな。
多分、学問はものすごく向いてないと思う。
だけど、それを志してきた以上、「実質的には入学もしませんでした」では終われない。
だから、遅ればせながら「学問」の海に飛び込むよ。
もし、「自分」と「学問」の間で溺れるようなら、
やめちまおう。
そんな風に思ってる。

長々とごめんな。
本当は「言葉探しの旅」の概念のバトンを、受け取るかどうかは別として、
お前に渡したいと思ってたけど、それもやめた方がいいみたいだ。
もし、お前が何かを書き始めたらそれを読まずにはいられない。
それに影響を受け反響せずにはいられないから。

ともあれ、
うまくこのわらじを履けるようになった時に、
また、こうして生きていきたい。

アサ