Japan’s Education to be worthwhile replicating


 日本の開発経験は、その要因が様々に分析され、ODAを通じて広くアジアの開発に貢献してきた。そして、近年、開発の進まないアフリカにも日本の開発経験を移転しようという試みが進められている。しかし、そこで問題になっているのがアフリカのソーシャルキャパシティの低さである。日本の開発を支えた最も基本的な要素は、幅広い意味での教育に裏付けられたソーシャルキャパシティの高さであった。なので、ここでは、特に日本の開発を支えた教育に焦点を当てて、国際開発に有用な要素を考えたい。

 日本は現在でも教育水準(特に初等・中等教育)の極めて高い国であるが、世界大戦後のいわゆる「焼け野原」と表現されていた時点はもちろん、江戸時代から寺子屋や武家教育などによって広く教育が行われていた。私は、読み書き・算盤に代表される基礎的な知育のレベルの高さだけでなく、規律や協働を重視する日本の教育のあり方が非常に重要な役割を果たしていたと考える。例えば、日本の教室では、生徒が日直を日替わりで担当し、日直が1日の全体挨拶やクラス日誌の記述と教師への報告を行う。また、学級委員は通常クラスで男女1名ずつが生徒による(民主的な)選挙で選出され、彼女/彼らが集まって中央委員という組織になり、そこで学校内の課題や問題について話し合いと情報交換が行われる。給食当番や掃除当番は、通常、5人くらいの生徒による班という単位で周っており、各班にも班長と副班長が話し合いで選ばれている。このように、様々なレベルの組織が学生主体で構成されて運営されているのである。教師はこれらの組織作りを主導するのではなく、積極的に見守っている。

 学級内で問題が起った場合。問題を起こした生徒に、教師が指導や叱責を行うこともあるが、全体に関わる問題の場合は、学級会という形で話し合いがもたれることがある。その際にも、話し合いの中心は生徒自身であり、学級委員が司会の役割を受け持ち、皆で問題の原因発見と解決について話あう。
 また、日本の教育では、団体行動や団体競技などを通して協調や協働の大切さを強調している。音楽祭、体育祭、学芸会、遠足、修学旅行、卒業式などがそれである。

 このように、生徒は自然に規律やルールを守る重要性と、協働の価値を自然に覚えていくのである。もちろん、上記の取り組みは世界中の教育でも導入されていることが多いであろう。しかし、ディスカッションで話し合われた世界の現状では、アジア(インドネシア)では同じようなことをやっていても、生徒が規則や団体行動を守らないため、そのような教育効果は日本のように高くないという意見などであった。また、それは教師の指導力不足が原因ではないかという話もあった。教育を通して、規律や協働の重要性を自然に育てることは、リテラシーの教育と同等かそれ以上に重要だと私は思う。特に、アフリカの諸国は、国としてのまとまりが弱く、民族・部族単位で互いに主張し合っているケースが多いため、それが国としての開発を妨げていると言えよう。ナショナリズムを強調する教育は危険さを孕んでいるが、国民教育としての規律や協働を育てる教育のシステムと、それを支える教師の教育は、日本の開発経験として移転する価値があると考える。