最近、どうにも寝れなくて、
オールウェイズ深夜のテンション、ユッスーこと浅田です。
今日は、3年半ほど前に前のブログに書いた記事を載せたいと思います。
なんていうか、その時って、今以上にいろんな知識は無かったんだけど、
でも、その時書いたこの記事は、今以上にストレートで、
切実なものがあると思ったので、紹介させて頂ければと思いました。


July6,2007

アジアについて思うこと

アジアの極東に位置する島、日本。
今日では圧倒的な技術力と、意外に知られていない投資力で、
アジア経済だけでなく、世界経済を牽引している。
そんな僕らの国には、苦すぎる過去がある。
アジアへの侵略。侵攻し略奪し虐殺し支配下に置いたのは
僅か70年ほど前の話。
大戦後は平和憲法の下、一定の平和と繁栄を築いた僕らの国。
世界で一番 紛争や貧困といった人間の安全保障に鈍感じゃないかって思う。
それでも「人間の安全保障委員会」の最大の支持国が僕らの国だったりする。

先ごろの元防衛大臣 九間氏の原爆発言には驚いた。
問題部分の発言の文脈を考慮しても“原爆はしょうがなかった”はありえない。
けれど、その発言に共感する大陸側アジアの人や、アメリカ人は多いんじゃないかな。
戦争の悲惨さを僕ら以上に知っているアジアの人たちにですら、
日本に原爆(民間人も無差別に地獄の苦しみと死を与える最終兵器)を落としたことに、
「あれだけのことをした国なんだから仕方ないだろう」と言わせてしまう。
僕らのおじいちゃんや曾おじいちゃんの世代は一体何をしてきたのか?!
どんな地獄をアジアで起こしてきたのか?想像がつかない。
アジアの人々の頭にはヒロシマ・ナガサキの前に
ナンキン・バターンなどの悲劇があるのだろう。

少し話を戻すと、原爆は絶対に許されない兵器である。
その生命や環境や未来に広範囲に与える悲劇的なダメージは、
人間が人間に向けるものでは断じてない。
核保有国は、いかなる理由を持ってしても(「テロリスト支援国」といったレッテルや「人道的介入」など)、核兵器を正当化することは出来ない。
核兵器ほど無用なものは何一つ無い。
以前「銃は人を傷つけるという最低の目的以外においては、最も無用なものである」という言葉を聞いたことがあるが、
原爆は正にその究極たるものである。

想像してみよう。
あのホロコーストという忌まわしい残虐な殺戮を行ったナチスドイツ。
あのドイツを許せないからといって原爆を落としていたら、
現在のドイツはあっただろうか?
ナチスだけが綺麗さっぱり退治されて、人々は喜んだだろうか?
ホロコーストに核兵器で応えるということは、
最大の暴力に、最強の暴力で挑むようなものである。
そして、その結果は完全なる破壊のみである。
現代社会を見渡すと、「核兵器に絶対に反対」という声を上げている人は多くない。
特に、世界の指導者はあまりにもこの点に関して盲目である。
自国の国益の計算には他国の民衆の生命など格安の扱いなのだろうか。
「無差別、長期、破壊的、大量虐殺」の為の兵器が綺麗に配備されている世界は変だ。
被爆国の一人としても、僕は声を上げていかなくてはいけない。
大きな声を上げられるような人にならなくては。

さあ、ここで問題が発生する。
世界の人々から見た戦時中の日本というのは、
当時のナチスドイツであり、
現在の北朝鮮なのである。
そんな国が戦争に勝つなんてことは、それこそあってはならなかった。
もし、大戦で日本が勝っていたらアジアの人々は今以上に幸せだったであろうか。
これは、ありえない。
右翼の人がこれを見たら激怒するかもしれないけれども、
当時の軍国主義、全体主義(の走り)は現在の民主主義よりも百万倍劣る。
ともあれ、そんな酷かった日本に落とした原爆の悲惨さは、
世界には届いていない。
特に、アジアには。

僕がアメリカに留学したとき、
沢山のアジア人の友達が出来た。
韓国人、中国人、台湾人、ビルマ人(ミャンマーの人)、モンゴル人etc
みんな良い奴だった。欧米人よりもずっと仲良くなるのが早かった。
僕は日本がアジアで何をしてきたかを勉強していたので、
建設的な友情を気づくことが出来、
“日本は大嫌いだがお前は大切な友達だ”そういう言葉をいつももらった。
だけど、原爆に関しては「あれは日本を敗北させるためには仕方なかった」と言われる。
それに、僕は断じて否定した。
あれは絶対悪だと。日本は遅かれ早かれ敗北していたと。
ただ、彼らにとって、日本が「遅かれ早かれ」敗北したことなんて大きなことではない。
一刻も早く、大打撃を日本国民に与えて欲しい。
そんな切実な願いがアジアの人々にはあったのだろう。
それが受け継がれているのだ。

僕も歴史を紐解くと戦争や欧米列強の植民地支配に身の毛がよだつ思いがする。
イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ。なんて汚い国なんだ。
特にイギリスは本当に汚い。どこが紳士の国なんだ。
アメリカも酷い。これは現在の姿を見ていても思う。
だけど、僕が訪れたアメリカ、イギリス、フランスは
人々もみなフレンドリーで文化も素晴らしい国だった。
今でも国際協力に非常に熱心なのがアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、(日本も)だったりする。
フェアトレードなんかも欧米では意識が高い。
「国益」中心に国際関係を見ていくことは、
最も現実に即しているのかもしれない。
しかし、それで見えないことは多く、
それで描けない未来はあまりにも多い。

もう一度話を戻すと、
例え欧米列強がいかに残虐なことを戦時中に犯していたとはいえ、
それを根拠に日本がアジアで犯した事実や果たすべき責任が軽くなることは断じてないということである。
隣町でもその隣でも強盗・強姦・殺人が行われていたからといって、
自分の犯した同じ罪が軽くなるはずが無い。
被害者の傷が癒されるはずも無い。
戦後の日本はODAや戦後保障を通してアジアにお金を送り続けてきた。
が、それと同時に、アジアへの侵略の歴史を風化させてきたことも否めないだろう。
原爆は風化させない。侵略は風化していってもしょうがない。
そんなダブルスタンダードはいらない。

信頼で結ばれた未来図をアジアに、世界に開いていくために、
過去は僕らの世代から背負っていこう。
過去に大きすぎる過ちを犯していることによって、
現在や未来に同じ過ちを犯す可能性は消していけるはずだ。
“いっそのこと「アジア」に生まれたかったな”と洩らしたこともある。
でも、今は、僕らのおじいちゃんやその前の世代がしてきたことを
背負う覚悟がある。
過去を認めることで、現在の「国益」が損なわれるなんて思いもしない。
未だにアジアを見下している人が多いのは残念だけど、
それも関係ない。
私は私。
まずは一人立つ。